2008
見辛けりゃHTML化してカレンダーから張る
目を開けたら部屋中真っ暗でした。
視界に入るすべてが暗く塗り潰されていて、見慣れているはずの風景がそこにはありません。星花姉も夕凪姉も居ない――これは、何があったのでしょうか。
しかし、それは暗さに目が慣れてくるにつれて段々とそれらを取り戻していきました。机も鞄も二人の姉も何もかも。時計の文字盤見える頃になってようやく確信しました。
三時十八分。この暗さは夜そのものだったのです。
理由は判りませんが、中途半端なこんな時間に目を覚ましてしまったようです。今日は特段気温が高いわけでもなく、寝苦しさも感じませんでした。
本当に――謎です。
起き続けるには早い時間だと判断し、再び横になったのですが、目が冴えてしまって眠りにつく事が出来ませんでした。
ベッドから抜け出し、二人を起こさないようにそっと部屋を出ます。
夜の廊下は静かで冷たくて――心地よいです。家の中がここまで静まり返っている事など、私が起きている間はそうそうありません。
日中も、そして日が暮れてからも小さな子供たちの声がしていますし、寝てからも姉たちの声がしますから。
だから――こんな静かな夜は初めてです。
月明かりに照らされ廊下は青く暗い海のよう。
行く当てもなくふわりふわりと波に任せ漂い、さまよう姿はまるでクラゲのようです。
どれ位の時間が経ったでしょうか、キッチンの脇を通り過ぎようとした時、微かに物音が聞こえてきました。
空耳ではないかと思ったのですが、物音よりも更に微かではありますが気配を感じて――疑念に変わっていきました。
恐る恐る柱の影からそっと覗くとそこには――
「小雨姉? どうしてこんなところに居るのですか」
小さく縮んだ――いえ、屈んだ小雨姉が居ました。
「え、吹雪ちゃん?」
小雨姉は驚いた様子で私を見つめています。無理もありません。こんな夜中に家族の誰かとばったり遭遇するなどということは万に一つもありはしないでしょう。それが妹ならなおさらです。
「私は寝付けなくてふらふらと歩き回っていたのですが、小雨姉はなぜこんな時間に?」
「私はその……ミミちゃんを無くしちゃって。それで探してるの」
ミミちゃんというのは小雨姉がいつも持ち歩いている犬のマスコットの事です。
「こんな時間に――ですか」
小雨姉はこくんと肯きました。
ちらりと時計を見ると長針が指していたのは九。小雨姉にとってミミちゃんがそれほど大事なものだという事なのでしょう。
「さっきね、目が覚めて枕元を見たらミミちゃん居なくって――それでなんだか不安になってそれで……」
いつも持ち歩いている……いえ、行動を共にしている半身――とも言うべき物が唐突に欠落した。
その時の小雨姉はそんな心境だったはずです。だからこんな遅い時間に暗闇の中、こうして一人でミミちゃんを探していたのです。
「ずっと探してるの。でも見つからなくって。朝見たのは憶えてるの。今日は一日お家に居たからどこかにはいるはずなんだけど……」
「朝見たというのはどこでですか?」
「え? えっと、机の上だったかな。朝ご飯を食べた後、ミミちゃんと一緒にお庭に行ったんだけど――もしかしたらその時かも――」
午前中はマリー達がプールで遊んでいて、小雨姉は監督役として事故が起きないように見守っていました。
もしその時に無くしてしまったのならプールを設置した庭か、プールを片付けた物置に落ちている可能性が高くなります。
「午後からはお昼の片付けをした後、プールで遊んだ子たちを寝かしつけてそれから洗った水着なんかを干して、それから少し休憩をしてから夕飯の準備を手伝ってたんだけど、その時になって初めてミミちゃんの事を思い出したの」
小雨姉が喋るのが段々と早くなっていきます。
「でも、お夕飯の準備を投げ出すわけにもいかないし、それに食べ終わってから探そうにももう暗くなってて。それで一度は諦めたの」
夕飯の準備と片付けで頭が一杯で、それでミミちゃんが頭から追い出されていたのでしょう。そしてそれらが消えた夜中に思い出した、と。
「でも目が覚めたら急にね、不安になったの。もしかしたら見つからないんじゃないかって。そしたら落ち着かなくなっちゃって」
「……それでこうして探していたのですね」
それもこんな夜中に、一人で。
私にはミミちゃんのような半身と言えるようなものはありませんが――小雨姉が落ち着かないというのは分かる気がします。
もし、姉妹の誰かがいなくなったら、私の苦手なものがきれいさっぱりと消えてしまったら――同じように落ち着かなくなるでしょう。
想像する事しか出来ませんが、それはとても寂しい事なのかもしれません。だから――
「小雨姉、私もミミちゃんを探すのを手伝わせてはくれませんか?」
予想通りというか、案の定小雨姉は驚いて目を見開きました。
「でもこんな時間になんて駄目よ。早く寝なきゃ明日起きられなくなっちゃう」
「先程も言いましたが寝付けずに歩き回っていたのです。同じ起きているなら手伝いたいのです」
不思議なほどに次から次へと言葉が出てきました。まるで何かに後ろから背中を押されたようです。
「――本当にいいの? 眠くなったらすぐに言ってね」
本来ならば小雨姉は私のことを寝なきゃ駄目よ、と諭したでしょう。でも今回は、おそらく今回に限りでしょうが、それをしなかった。いいえ、年長者として諭さなければならないことを失念してしまったのでしょう。
「はい」
ベッドに戻ったところで寝付けやしないのです。それなら自分に出来ることをしよう、と考えました。
「ではまず確認をしたいのですが、どこまで探したのですか」
「えっと、まだここ――キッチンとお部屋だけなの」
ということは暗くて探せない庭と物置、休憩をしていたであろうリビング。それから水着を洗った洗濯機周辺がまだということになります。
「庭と物置は暗いうちは探せません。ですからまず、リビングに行きましょう」
リビングはキッチンと同じくひんやりとしていました。
「具体的にどこに居た、というのは憶えていますか?」
「えっと、そっち――かな?」
小雨姉が指を差した先には畳まれたタオルケットがありました。
「さくらちゃんたちがお昼寝するのを見ていたのがそこ。水着を干した後に春風お姉ちゃんと蛍お姉ちゃんと三人でお茶を入れて休憩をしていたのもそこだったかな」
まずタオルケットをめくります。が、挟まっているはずもなく。
次に顔がくっつくくらい床に近づけ、椅子やテーブルの下を探します。が、ミミちゃんは見つかりません。
「居たのはこの辺りだけですか? 他にどこかに居たということは――」
「ううん、昨日リビングに来たのはさっき言った二回だけだから」
一応、テーブルや棚の上なども調べましたが見つかりませんでした。
ミミちゃんほどの大きさのものとなると落とした拍子に部屋の隅まで転がってしなう、なんてことはないでしょうから、目の届く範囲で見からないとなると落としたのはリビングではないということになります。
「では次に行きましょう」
リビングをあとにして、洗濯機周りを調べに向かいます。
「駄目ですね――」
ここはあまり広い空間ではありませんから―すぐに調べ終わってしまいました。
「ミミちゃん、ここにも居なかった――どこで無くしちゃったんだろう」
そばにいて、小雨姉の不安が増していくのが手に取るように分かってしまうのが辛いです。
そしてどう言葉を掛けていいのは浮かんでこないのが悔しいです。
ただ一言、「戻りましょう」と袖を引く自分がなんだか頼りなくて。
キッチンへ戻ると小雨姉が右手の人差し指を唇に当てて、アイス食べよっかと言ってくれました。
これは私が沈んでしまわないようにという配慮でしょうか。
それなら――ちくりとどこかが痛みます。なぜならそれは、裏を返すと私が小雨姉の力になれなかったということになりますから。
何も言えずに無言でアイスを食べていると、急にパチンという音がして明るくなりました。
目が明るさに慣れるに従って、目の前に立っている影の輪郭がはっきりとしてきました。
そこにいたのは――
「お兄ちゃん――どうしたんですか?」
なぜ――キミがここに居るのですか? 誰も起きていないような夜中に――と、ここで思い出しました。
最後に時計を見たのは目を覚ました時です。そしてその後、どれ位の時間廊下をさまよっていたのか――自分でも憶えていないのです。
カウンター上の時計を見ると短針が差していたのは三でも四でもなく、五だったのです。
あぁ――なるほど。別にキミが起きていてもおかしくない時間に、いつの間にかなっていたのですね。
「はい――ありがとうございます――お兄ちゃん」
小雨姉がミミちゃんを無くしたことを説明すると、兄さんは一緒に探してあげるねと言って小雨姉の頭を撫でました。
小雨姉はたったそれだけのことで、ああも顔を綻ばせたのです。
――兄さん、私がさっきまで感じていたものは失望感だったのですね。
何も出来なかった自分への。
不思議ですね――これが兄というものなのでしょうか。
兄さん――。
「キミも――食べますか」